意外と知られていない手話と手話サークル活動について…七道のイオンモール堺鉄砲町店にある赤レンガ建築のカプリチョーザにて
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先日、堺に新しくできた七道のイオンモール堺鉄砲町に行ってきました。
行ってきたといっても今回は、イオンモールの建物の中には入らず、モールの一角にあるレトロな赤レンガ建築の建物に行ってきました。
この建物は、ダイセルの前身である堺セルロイド工場が1910年に建てた建物で、この場所を利用して、食事ができるように全国展開している「カプリチョーザ」が出店したのです。
ということで、ここで友達と食事をしてきました。
赤レンガ造りのカプリチョーザ
今回のこの集まりの友達というか仲間とは、数か月に1度、会える時に会って、食事をする間柄です。
今回は4人という寂しい集まりになってしまいましたが、美味しい食事ととても楽しいひと時を過ごすことができました。
今回、オープン記念ということで2990円となっている2人様セット×2とデザート2種を注文しました。
今回は4人なので、ピザが2種とパスタを2種選び、デザートも2種類食べて大満足でした。
飲み物は飲み放題、サラダバーもあります。
おしゃべりしながら食べるのには、ピッタリの量でした。
友達が予約してくれていたので、ゆったりとした席につくことができ、お店の方の対応もよく、ワインも充実しているようで満足でしたが、アルコールがダメなので残念でした。
長年連れ添った手話の仲間たち
集まった友達は、何を隠そう私の第2の青春時代(?)である手話仲間であり、10年あまりを一緒に過ごした同志でもあります。
そのうちの2人とは、市の講習会からの同期であり、思い出せば懐かしさと、良く頑張ったという気持ちと青春が終わったという気持ちが先に出てきます。
40の手習いとばかりに興味を持っただけで申し込み、受かった珍しさで、手話講習会に通い出し、それからの付き合いとなったのです。
当時は、テレビ番組、星の金貨の影響もあり、講習会の募集人数50人に対して100人が応募したとのちに聞きました。
手話の第1次ブームの到来でした。
手話講習会を終えて、それから一緒に手話のサークルに入りました。
今回は、その後のサークルで知り合った1人を交えて4人の集まりでした。
手話サークルって!?
昔話といっても、出てくる話は手話の話ではなく、その当時の活動の話ばかりです。
手話の話ではなく、活動の話と聞いても、一般的にはなんの事? ってな感じだと思います。
頑張っていた当事の私達でさえ夢のような時間と経験でした。
何を思い返してみても、ありえないと思うぐらいに、聞こえない方達と権利を勝ち取るために頑張っていたというしかありません。
意外と知られていない手話のこと
手話を始めてから、手話は聞こえない人たちの言語であるということはご存じかと思いますが、1番に私が驚いたことは、方言のように、聞こえない方々の個々の手話が違うということでした。
出身地や教えた人の手話があり、伝え方の方法があり、そして、引き継がれたクセがあるということでした。
手話の単語を覚えて表現すること、つまり自分から発信することと、相手の手話を読み取ることは全く異なり、読み取った単語は言葉に変換し、そして文章に変換しなければなりません。
それが聞こえない人の声を聞くことになりますす。
手話の単語を覚え、文法もそれなりに取得し、聞こえない方の手話を読み取ることができてくると、それはそれなりに楽しいもので会話が成立し、自分が育った世界とは違う世界観を知ることにもなります。
が、それ以上に聞こえないということの不便さを知ることでもあります。
聞こえないということ
40の手習いなんて軽い気持ちで始めた手話は、初めて聞こえない方たちとのハイキングで、みごとに打ち砕かれて衝撃を受けました。
手話を覚えても、その当時、集まった中に高齢のおじいさんがいて、まったく手話が通じませんでした。
その方は文字が読めない方で手話も知らず、会話としての方法は身振りのみでした。
おじいさんの話は、朝起きて、一生懸命おにぎりを作ってきたから食べてみてというものでした。
私はおにぎりを一気に食べました。
美味しいということを伝えるためには、その方法しかないと思ったのです。
それからの私は、手話サークルの中で、聞こえない方の生活のレベル向上のために活動に明け暮れました。もちろん、今回集まった仲間も同じ気持ちでした。
手話サークルで行った活動について
当時、聞こえない方々の思いは、自分たちが利用できる施設建設へと向いていました。
サークルも、聞こえない方々の協会と足並みをそろえ、お互いが協力しあって、施設建設のための募金活動に邁進することになりました。
億という金額を集めるためには、並大抵の運動ではありません。
会議はもとより資金を集めるための案を絞り出すなど、本当にお金のことしか考えていない、手話が二の次のような手話サークルとなっていました。
仲間が集まれば、必ず出てくるその当時の思い出話のNO.1が街頭募金活動です。
募金箱を持って募金を呼びかけます。
ある者は拡声器をつかって訴え、またその横で手話をする、首から募金箱をぶら下げて、ビラを配るなど片時も止まらず、大変でした。
少々の雨でも決行され、旗の準備から、道路の使用許可申請などと本当に良く頑張ったものです。
そしてフリーマーケットがあると申し込み、物品を集め、朝早くから暑い中、1日中販売しました。唐揚げとフライドポテトと揚げたこ焼きの出店もしましたね。
今回の友達の1人は、サークル専用のつまようじをいつも用意してくれました。
夢から覚めて
そして、その後10年あまりが過ぎ、時代は変わりました。文明が変わったというのでしょうか?
携帯の普及によって聞こえない方々の情報取得量も格段にアップされ、社会進出も目覚ましいものとなりました。
決して、100%の権利を得ているとは思いませんが、10年過ぎれば、世の中はがらりと変わってきています。
そして、私を取り巻く環境も変わってしまいました。
両親が高齢になり、時間があっても心から自由になる時間がなくなり、手話の世界に没頭できなくなりました。
今は、別の時間を利用してまったく違う、緩和ケアのボランティアをさせてもらっていますが、サークルでの10年あまりを思いだす時に、あの私のパワーは、どこから来ていたのだろうと、思い出すたびに、どこか夢心地になるのです。
いまでも不思議であり貴重な経験です。
仲間との交流
第2の青春をともにした、この仲間は不思議と歳をとりません。
というか年齢を感じさせません。その一時の情熱を、現在も持ち続け、なにかに向けて発信しているからだと私は思います。
だから、数か月に1度会っても話に飽きることなく、過去の話であったり現在の話であったり話を聞くことによって新しい刺激をもらうことができるのだと思います。
夢のような貴重な10年あまりを経験させてくれた手話サークルと友に感謝です。
さて、次の集まりが今から楽しみです。