病や死から恐れない?考えかたの変換!「幸せ貯金」をしよう 参考:団塊スタイル
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慌ただしい12月でした
今年の12月は、本当に慌ただしい月でした。母の入退院、知人の死、知人の急病、そして私も何十年ぶりかに発熱してしまいました。
健康オタクでありながら、身体の管理の難しさと、病は急にやってくるということにあらためて気がつきました。そして、やはり忘れてはいけないのは、
- おかしいと思えば検査はすること
- 自分の身体を過信してはいけないこと
です。有名人の方が、病気になったり亡くなったというニュースがあれば、必ずええ?「元気やったのに!」と思い、それは他人事でもありながら、何となく自分への不安材料にもなっています。
病になることもあるし、死がおとずれることもあるだろうということは頭では、わかってはいますが、今は、ただ漠然と不安なこととしたイメージでとらえています。
そして「死や死後への備えが必要」という最近の風潮に思いが偏りつつありましたが、いまは自然に任せようという気持ちに変わりました。備えるにこしたことはなくても、すべてが、あるがままで流されるのもよいのではないかという思いです。これは流れに逆らったわがままでしょうか?
困り事は急にやってくる
- 大好きだった祖母が、点滴中に急死してしまう
- 出産後に、妊娠中毒症で危篤になる…私です
- 優しかった父が、入退院を繰り返し亡くなる
- ボランティア活動をしてた友の死への在り方
今までにこんなことがあって、いつも心の中で死についてナーバスになっていました。
身体にも気をつけ、検査も受けて、食事にも気を配っていた私でしたが、この12月の経験で、準備は準備であり、とるに足りないものと割り切りました。
この12月に知人が急病で急遽、入院したのです。元気の塊の人であり、健康オタクでもあり、実際に年齢よりも若く見え病気と縁がない人でした。病気にたいして心配症で、とても健康に気にかけていましたが、急に病で一時は危ないくらいの状態になってしまい、こちらを慌てさせる結果になりました。やはり、人生、一寸先には何があるかわからないと、心にドーンと鉛が入り込んだのです。
“死”をどう考える?
最近のテレビ番組では、“死”をどう考える?という内容や、その過程や死後のことの準備を扱った番組まであります。年齢とともに、もう頭に入れておくこともおかしくない、いざとなれば、少しは知っておくべき知識かもという思いで、つい見てしまいます。しかし死は自分には、関係ないこと、どこか遠い縁のないことととらえています。
こころの問題
先日のテレビ番組「団塊スタイル」の内容は「がん哲学外来」を発案された順天堂大学医学部 病理・腫瘍学 教授 樋野興夫さんの「患者に寄り添う、会話ではなくて対話する、心と心の対話」という内容でした。
この先どうなるのか? という答えのない不安や恐怖、心の問題を医療と患者の隙間を埋める場として、先生が1人30分の対話をしていらっしゃるという内容でした。
「最後に…どうせ死ぬなら自分のことばかり考えてないで人の役にたつことをやったらどうですか? 死はあなたの大仕事ですよ。死から距離を取り、角度を変えて考えよう」と問いかけ、病気は解決できないけど、不安は解決できるというのです。
悩みはあっても、ちょっとした対話から優先順位がかわるというのです。
本人が自ら変わらない限り変わらない、そのためには、その人が変われるようにするにはどうしたらいいのか? と先生は提案されるのです。
また、仲間と分かち合い、がんで苦しんで死ぬのではなくて、がんと共存し天寿がんっていう考えがあるという選択なども対話して、抗がん剤治療を断り穏やかになり、愛と思いやりによってプラスのほうを向くという考えかたです。それはそれで素晴らしいことです。しかし実際に、そんなふうに思えるのか?私なんかは、番組を見てより不安が大きくなってしまいました。
注:天寿がん 天寿がんとはがんを抱変えたまま命を全うする
動かせないもの
何をあらがっても、人生は変えることができないのではないか? 変えれそうでも変えることができない。逆らえない。とても大きな力なのではないか。その世の中で私は生きている。この今を生きている。それは感謝のみです。
番組の中で美輪明宏さんは、
朝起きて、人は、なんとなく不安、不満、憂鬱、に思う、情緒人間になっている、しかしそれでは、いけない、ちゃんと生きているし、水も飲めるし、歩けるし、着る物も、食べる物も、寝るところも住むところもある。そこ、そこに有り難い、結構結構と発想の転換をして、1日中暮らし情緒人間からの脱却をしなさい
と話されていました。いろんなことがあって、初めて、この言葉が心に染み入ってきた感じがします。
またカトリック修道会シスター 鈴木秀子さんは、
死は、特別なものじゃなくて人生の続きに起こってくるもの、私たち一息一息しているのと同じように死の瞬間は死を受け入れて大丈夫であり、最後の瞬間は、全てのものから解放され魂が安らぎの中に入っていく過程
なのだとおしゃっていました。
考えかた
宗教や哲学には、ほど遠い私です。生や、死、この世をどのように捉えるかは、難しくてわかりません。考え方は個人の自由であり、その人の生き方だと思うのです。ひとりの人生は、ひとつであり、終わりということは何もかもが、無くなって消え去るものだと私は思っています。
この世を卒業して、意思をもって向こうの世に生まれ変わっていくとか、人間はそれぞれ神様から生きる力をもらって生きているなどとは決して思えないのです。
だから、心の中になにか人生はわびしいものだという思いが消えることがありませんでした。
幸せ貯金って? 目からうろこの新聞の投稿
ある日の新聞の投稿に目が釘付けになりました。
19歳の高校生の女の子からの投稿です。
今年の1月1日から、うれしかった事や、励まされた言葉など、日常の小さな幸せを紙に書いて「幸せ貯金」として瓶に入れ、12月31日に一つひとつ開けて読み返すというものでした。
その内容には、闘病生活を通して深い思いも書かれていますが、読み進んで私も心が明るくなりました。なんて、ステキな事なんだろうと思ったのです。1日1日を大切にしようと口では言っても、なかなか実行に移せないものです。
愚痴が先に出て、悔やまれることが自然に多くなっていく年頃になってしまいました。
母が急に入院したり、知人が大病になったり、自分自身が熱をだすだけでも、オタオタしてしまい、なかなか有り難さを感じることができなくなっていたように思います。
来年から、いや今からでも遅くない。ちょっといいことを心に貯めていこうと思います。継続は力なり、ナーバスになりがちな心に「幸せ貯金」を!